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    2021/03/09丹波大納言 あずきの話
    1.『大納言あずき』『小倉あん』など 名前の由来


    あずきの歴史は古く、縄文遺跡から炭化した種が発見され、奈良時代初期の「古事記」や「日本書紀」に『五穀』として登場します。
    *五穀:主要な穀物5種[米・麦・あわ・きび・豆]、転じて穀物の総称


    京都市の北西、嵯峨野から京都府下、兵庫県にまたがる[丹波地方]では、母川が異なる大小いくつもの盆地や谷あいで、風土に合って、はるか昔から、大粒で色艶かたちが良く美味しい希少な小豆(あずき)がつくられてきました。なかには1000年を超えて守り続けられてきたものもあるそうです。



    大納言小豆発祥の碑


    1705年に丹波亀山藩主青山忠重が、飛び領地で「春日局(かすがのつぼね)」ゆかりの地の「春日東中」の特産の小豆を、5代将軍徳川綱吉に献上したところ幕府で評判となり、さらに綱吉が朝廷に献納して朝廷でもとても人気となりました。
    この小豆は「煮ても皮が切れない」ことから、切腹する習慣がない公卿の職位に擬せて『大納言』と呼ばれるようになったそうです。
    これが『大納言小豆』の由来で、丹波地方で作られる、小槌や烏帽子、俵のかたちの、大粒で色艶が良い、独特の香りで、しかも柔らかい薄皮が煮ても切れない 美味しいあずきを総称して、『丹波大納言』と呼ばれるようになりました。

    この小豆は、原種のまま品種改良されていないので、栽培や収穫にとても手間がかかり、収量も一般の小豆の半分程しかありません。
    晩生種で生育期間が長いため、天候不順や台風による被害を受け易く、また、莢(さや)が一度に枯れ上がらずに10月〜11月にかけて順番に熟して枯れていくので、収穫期が長く、順番に収穫する手摘みの手間がとても大変です。

    移植された北海道産大納言小豆が現在では有名ですが、この『丹波大納言』は、昔から変わらず老舗の味を支え続けています。

    *丹波と言うと兵庫県丹波地方がイメージされることが多くなり、京都市の北西部や京都府下の丹波地方でつくられる小豆のことを特に『京都大納言』と呼ぶことがあります。


    ◆『小倉あん』のルーツ



    小倉餡発祥の碑


    小倉餡発祥の碑(裏)


    809年に空海が中国から小豆の種子を持ち帰り、小倉の里(京都市右京区嵯峨小倉山麓)に住む和三郎という菓子職人がその種子を栽培して、 820年には、御所から下賜された砂糖を加え煮つめて、日本で始めての“小豆を砂糖で炊いた餡”をつくり、御所に毎年献上したそうです。

    とても高価で珍しい菓子で庶民の口に入るものではありませんでしたが、和三郎の努力で、京の都を中心に、小豆が広く栽培されるようになり、江戸時代には茶道の菓子となり、また祝飯がハレの料理にも加えられるようになりました。

    空海は、また、中国の「亀の甲煎餅」の技術も和三郎に伝授し、これが京菓子そして日本の和菓子の源流となりました。
    (井筒八ッ橋本舗 都田左兵衛 (六代) 記より)



    小倉餡の由来高札


    京都の小倉山周辺でとれる小豆(のちに大納言と総称される小豆の小倉産)が大粒で品質が良く最適とされて、この小豆を使った特別の小豆餡を『小倉あん』と呼ぶようになったそうです。
    「小倉あん」は“こし餡”に 煮て蜜に漬けた大粒の大納言を混ぜ合わせてつくります。
    砂糖は、室町時代になると輸入が活発になり、江戸時代には国内でも生産されるほど拡大して庶民も口にすることができるようになりましたが、このような品質の良い小豆は、江戸周辺では栽培されず 入手が難しかったので、江戸では「小倉あん」は大変貴重で高価だったそうです。


    ◆『亀山』の由来



    甘味処かさぎ屋の「亀山」


    京・大阪では「丹波大納言」でつくる汁気のない「あずき餡=粒あん」にお餅を添えたもの(関東の「ぜんざい」と同じ)を『亀山』と言います。
    丹波国亀山藩(京都府亀岡市)が『大納言』の産地として名が通っていたので、大納言のつぶ餡にお餅を添えた“高価な菓子”を『亀山』と産地名で呼んだのではないでしょうか。


    京・大阪のぜんざい


    甘味処かさぎ屋の「亀山」と「ぜんざい(つぶ餡)」

    甘味処かさぎ屋の「小倉しるこ(小倉餡)」

    甘味処かさぎ屋の「しるこ(こし餡)」



    2.『大納言』と呼ばれるようになる背景


    小さなあずき粒が、壮大な歴史ロマンを連想させてくれました。

    武士とは違い「切腹の習慣がない」公卿の大納言とは・・


    ◆「大納言」は公卿の職位

    大納言は、太政官に置かれた官職で「大臣とともに政務を議し、宣下と奏上に当たる」とされ、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣に次ぎ、「三位(さんみ)」以上の“公卿”が就く職位だそうです。
    *公卿は公 (こう) と卿 (けい) の総称で、公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の官人を言うそうです。

    後に、権官(権大納言)が設けられ、鎌倉時代には公家の家格が定まり、南北朝時代以降は、正員の任命はなく、任命は権官ばかりになります。
    最後に正官に任ぜられたのは「春日局」の曽祖父の「三条西実枝」(1577年)でした。

    *権官:[権]は仮の意味で、定員を越えて任命するときの官職で、実権のない名前だけのことが多かったようです。
    *徳川幕府が定めた「武家官位」は朝廷の太政官職では“員外”とされています。


    ◆「春日局(かすがのつぼね)」と氷上郡「春日」

    「春日」は、青山忠重が5代将軍綱吉に献上した小豆の産地ですが、また、江戸城大奥に君臨した「春日局」の生誕地としても知られていました。
    「春日局」は、江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母で、江戸城大奥の礎を築き、朝廷との交渉の前面に立つなど、徳川政権の安定に尽力しました。



    「黒井城跡」

    「黒井城跡」を望む


    織田信長から丹波攻略の命を受けた明智光秀は、「丹波亀山城」を拠点に、この春日の地の「黒井城」を攻め落として丹波攻略を成就すると、この黒井城を重臣の斎藤利三に任せました。
    斎藤利三の妻は、織田信長の後押しで「大納言」に任ぜられた歌人でもある「三条西実枝(さねき)」の孫で、2人の間に春日局となる「福」がこの春日で生まれました。
    三条西実枝は、正親町天皇のもとで、織田信長を後ろ盾にすべく尽力しました(光秀の丹波攻略にも関わりがあったようです)。
    信長は、窮乏した朝廷の財政建て直しに貢献し、正親町天皇も、信長に敵対する勢力に対してたびたび講和の勅命をだしました。
    豊臣秀吉も信長の姿勢を引き継いだので、正親町天皇の時代に皇室の権威は高まりました。



    黒井城下舘跡(興禅寺)


    父の斎藤利三が明智光秀に従い羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦して処刑されると、福は母方の稲葉家に引取られて三条西家で養育されました。
    三条西実枝の孫の三條西実条(さねえだ)は、幼少から春日局と親しく、三條西家を継ぐと「権大納言」に任ぜられ、武家伝奏として幕府との交渉役を担いました。
    春日局が家光の代理として上洛する際には、御所へ昇殿する資格のない春日局を猶妹に縁組し、局は三条西家の女性として後水尾天皇に拝謁を許され従三位の位階と春日局の名号を賜りました。


    ◆五代将軍徳川綱吉

    5代将軍綱吉は、3代将軍家光の四男で、館林藩主から将軍になりました。
    延宝8年(1680年)5月、4代将軍家綱に世継の子がなく、三兄の綱重(甲斐徳川家)も既に亡くなり、家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が40歳で死去したため、内大臣および右近衛大将となり将軍宣下を受けました。
    尊皇心が厚く、在位時期が重なる東山天皇の朝廷には、皇室領を1万石から3万石に加増し、大和・河内一帯の御陵のうち66陵を修復させ、公家たちの所領も増やしました。
    母の「桂昌院」は、「春日局」に見いだされて「玉」と改名して江戸城大奥に入り、家光の側室になっています。桂昌院は1702年に従一位に叙位されています。
    *「玉の輿」の由来となっています。


    ◆丹波亀山藩主青山忠重

    浜松藩から1703年に移封された青山忠重は、綱吉の[世話役]を勤めていました。
    青山家は、忠重の祖父が3代将軍徳川家光の幼少時の[守り役]を勤めた家柄で、地名となっている東京青山に江戸屋敷がありました。



    丹波亀山(亀岡)城跡
    明智光秀が丹波討伐の拠点として1577年に築城しました。


    ◆東山天皇

    霊元天皇の第四皇子で、治世は23年に及びますが、全期間を通して父の霊元上皇が院政を敷いていました。
    天皇は、近衛基熙と関係を強め、基熙の補佐を受けて親政を遂行します。
    在位時期が重なり尊皇心が厚い5代将軍綱吉との関係は、おおむね良好に推移しました。
    東山天皇の元禄時代(1688年9月30日 - 1704年11月22日)後期に赤穂事件が起きます。

    *東山天皇は[貞享4年]1687年に即位し[宝永6年]1709年に中御門天皇に譲位しています(治世の年号は貞享・元禄・宝永)。



    「京都御所」


    ◆赤穂事件

    ・「松之大廊下の刃傷事件」1701年
    元禄14年1701年4月21日、東山天皇の聖旨と霊元上皇の院旨の伝奏に5代軍綱吉が奉答する[勅答の儀]の直前、江戸城の本丸大廊下(通称松の廊下)で浅野長矩が吉良義央に切りかかりました。
    この事態に綱吉は激怒して、浅野内匠頭(浅野長矩)は即日『切腹』、浅野家は所領の播州赤穂を没収の上改易となりました。
    なお、勅使は柳原資廉(権大納言、従一位)と高野保春(権中納言、従二位)で、院使は清閑寺熈定(権大納言、従二位、妹は綱吉の側室)でした。
    東山天皇は、帰洛した勅使両名と院使に「事件後、将軍へ何の取り成しもせずに傍観して、浅野長矩及び浅野家を見殺しにしたのはけしからん」として参内禁止にします。
    なお、柳原資廉はその後も東山天皇の下で武家伝奏として幕府との折衝に当たり、高野保春も権大納言に任ぜられて正二位となっています。

    ・「吉良邸討ち入り」1703年

    元禄15年12月(1703年1月30日)、大石良雄(内蔵助)以下47名の赤穂浪士が吉良邸討ち入りを敢行して、吉良義央(上野介)の首をとりました。
    赤穂浪士たちは、庶民の間で“忠義の義士”とはやされますが、幕府の命により、元禄16年(1703年3月20日)に、お預かりの大名屋敷で『切腹』しました。

    *この赤穂事件は、舞台に取り上げられて浄瑠璃や歌舞伎の人気の演目となります。
    はじめて舞台に取り上げられたのは討ち入り決行直後の元禄16年正月で、江戸山村座の『傾城阿佐間曽我(けいせいあさまそが)』の五番目(大詰)で、曾我兄弟の仇討ちという建前で赤穂浪士の討入りの趣向を見せたそうです。
    以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、宝永3年(1706年)に、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座で上演されています。
    そして、寛延元年(1748年)に集大成の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が上演されました。


    ◆6代将軍の決定

    宝永元年(1704年12月31日)、6代将軍は、綱吉の甥(兄の綱重の子、第3代家光の孫)で甲府徳川家の綱豊(のちの家宣)に決定しました。
    綱豊は「家宣」と改名して綱吉の養子となり江戸城西の丸に入ります。

    *1680年に5代将軍となった綱吉には世継の子がなく、綱吉の娘婿(鶴姫の夫)の徳川綱教(紀州徳川家)が候補に上がっていましたが、徳川光圀が反対したという説があるそうです。
    家宣と綱吉との関係は良好なものではなかったといわれています。
    家宣の正室は五摂家筆頭の近衛家当主で関白の近衛基熙(もとひろ)の娘の熙子で、6代将軍家宣の時代は「東山天皇−近衛基熙−徳川家宣」ラインで朝廷と幕府の関係がもっとも安定した時期を迎えました。
    また、家宣は慈悲深いことで知られ、家臣が幕府から『切腹』を命じられると、「一時とはいえ、自分のために仕えてくれた家臣を助けてほしい」と助命を嘆願して流罪に減刑されました。


    ◇近衛基煕(もとひろ)と大石内蔵助

    赤穂藩浪人となった大石良雄(内蔵助)は、叔父で近衛家に仕えていた進藤源四郎のとりなしで朝廷御料の京の山科に身を寄せます。
    内蔵助の4代前に近衛家の女性が大石家に嫁いで、近衛家と大石家は姻戚関係にありました。
    また、討ち入りの情報収集や資金面で内蔵助をバックアップした大石無人(曾祖父の弟の長男)は近衛家に居候をしていた時期があったと言われています。
    このようなことから、討ち入りに関白近衛基熙が関係していたのではないかとする説が有りますが、いずれにしても「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」が綱吉の後継決定を早めたと思われます。
    47士が『切腹』した翌年の1704年に、綱吉は、娘婿の徳川綱教(紀州徳川家)ではなく近衛基熙の娘婿の「綱豊」(のちの家宣)を後継に決定しました。


    ◆特産あずきの献上

    このような時期の1705年に、丹波亀山藩主青山忠重は“皮が切れず切腹しない”小豆を5代将軍綱吉に献上しました。
    綱吉はこの小豆を東山天皇に献納し朝廷でも評判となって、大納言と呼ばれるようになったそうです。




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